花間集







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温庭?66首 花間集1・2巻 皇甫松11首 花間集二巻 韋莊47首 花間集二巻 薛昭蘊19首 花間集三巻 牛?31首 花間集三・四巻 張泌27首 花間集四巻
毛文錫31首 花間集5巻 牛希濟11首 花間集5巻 欧陽烱17首 花間集5・6巻 和凝20首 花間集6巻 顧夐56首 花間集6・7巻 孫光憲47首 花間集7・8巻
魏承班15首 花間集8・9巻 鹿虔?6首 花間集9巻 閻選8首 花間集9巻 尹鶚6首 花間集9巻 毛熙震29首 花間集9・10巻 李c39首 花間集10巻




花間集 

全詩 総合案内
    

『花間集』 全詩(1)温庭均の詩目次

『花間集』 全詩(2)皇甫松と韋荘 詩目次

『花間集』 全詩(3)薛昭蘊、牛僑と張泌 詩目次

『花間集』 全詩(4)毛文錫、牛希濟と欧陽烱 詩目次

『花間集』 全詩(5)和凝と顧夐 詩目次 

『花間集』 全詩(6)孫少監光憲(孫光憲【そんこうけん】)四十七首 

『花間集』 全詩(7)魏承班十五首 鹿虔衣六首 閻選八首 尹鶚六首

『花間集』 全詩(8)毛秘書熙震(毛熙震【もうきしん】)二十九首

『花間集』 全詩(9)李秀才c(李c【りじゅん】)三十九首

    
  花間集 
    
第一巻 温助教庭均五十首:
  (1)温庭均 温庭均:菩薩蠻十四首 更漏子六首 歸國遙二首 酒泉子四首 定西番三首 楊柳枝八首 南歌子七首 河?神三首 女冠子二首 玉蝴蝶一首
第二巻 四十九首(?庭?:十六首、皇甫松:十一首、韋莊:二十二首)
    (1)温庭均 温庭均:清平樂二首 遐方怨二首 訴衷情一首 思帝?一首 夢江南二首 河傳三首 蕃女怨二首 荷葉盃三首
(2)皇甫松
と韋荘
皇甫松:天仙子二首 浪濤沙二首 楊柳枝二首 摘得新二首 夢江南二首 採蓮子一首
(2)皇甫松
と韋荘
韋 莊:浣溪紗五首 菩薩蠻五首 歸國遙三首 應天長二首 荷葉盃二首 清平樂四首 望遠行一首
第三巻 五十首(韋莊二十五首、薛昭蘊:十九首、牛?:五首)
    (2)皇甫松
と韋荘
韋莊:謁金門二首 江城子二首 河傳三首 天仙子五首 喜遷鶯二首 思帝?二首 訴衷情二首 上行盃二首 女冠子二首 更漏子一首 酒泉子一首 木蘭花一首 小重山一首
(3)薛昭
蘊、牛?と張
薛昭蘊:浣溪紗八首 喜遷鶯三首 小重山二首 離別難一首 相見歡一首 醉公子一首 女冠子二首 謁金門一首
(3)薛昭
蘊、牛僑と
張泌
牛僑:柳枝五首 
第四巻 五十首(牛?:二十六首、張泌:二十三首)
   (3)薛昭
蘊、牛僑と
張泌
牛?:女冠子四首 夢江南二首 感恩多二首 應天長二首 更漏子三首 望江怨一首 菩薩蠻七首 酒泉子一首 定西番一首 玉樓春一首 西溪子一首 江城子二首
(3)薛昭
蘊、牛僑と
張泌
張泌:浣溪紗十首 臨江仙一首 女冠子一首 河傳二首 酒泉子一首 生?子一首 思越人一首 滿宮花一首 柳枝一首 南歌子三首
第五巻 五十首(張泌:四首、毛文錫:三十一首、牛希濟:十一首、欧陽烱:四首)
     (3)薛昭
蘊、牛僑と
張泌
張泌:江城子二首 何?神一首 胡蝶兒一首 
(4)毛文
錫、牛希濟
と欧陽烱
毛文錫:虞美人二首 酒泉子一首 喜遷鶯一首 贊成功一首 西溪子一首 中興樂一首 更漏子一首 接賢賓一首 贊浦子一首 甘州遍一首 紗?恨二首 柳含煙四首 醉花間二首 浣紗溪一首 浣紗溪一首 月宮春一首 戀情深二首 訴衷情二首 應天長一首 何滿子一首 巫山一段雲一首 臨江仙一首
(4)毛文
錫、牛希濟
と欧陽烱
牛希濟:臨江仙七首 酒泉子一首 生?子一首 中興樂一首 謁金門一首 
(4)毛文
錫、牛希濟
と欧陽烱
歐陽烱:浣溪紗四首 
第六巻 五十一首(欧陽烱:十三、和凝:十三首、顧夐:十八首)
    (4)毛文
錫、牛希濟
と欧陽烱
歐陽炯:南?子八首 獻衷心一首 賀明朝二首 江城子一首 鳳樓春一首 
(5)和凝と
顧夐
和凝: 小重山二首 臨江仙二首 菩薩蠻一首 山花子二首 河滿子二首 薄命女一首 望梅花一首 天仙子二首 春光好二首 採桑子一首 柳枝三首 漁父一首
(5)和凝と
顧夐
顧?:虞美人六首 河傳三首 甘州子五首 玉樓春四首
第七巻 五十首(顧夐:三十七首、孫光憲:十三首)
   (5)和凝と
顧夐
顧?:浣溪紗八首 酒泉子七首 楊柳枝一首 遐方怨一首 獻衷心一首 應天長一首 訴衷情二首 荷葉盃九首 漁歌子一首 臨江仙三首 醉公子二首 更漏子一首
(6)孫光憲 孫光憲:浣溪紗九首 河傳四首
第八巻 四十九首(孫光憲:四十七首、魏承班:二首)
   (6)孫光憲 孫光憲:菩薩蠻五首 河?神二首 虞美人(虞?人)二首 後庭花二首 生?子三首 臨江仙二首 酒泉子三首 清平樂二首 更漏子二首 女冠子二首 風流子三首 定西番二首 河滿子一首 玉蝴蝶一首 八拍蠻一首 竹枝一首 思帝?一首 上行盃二首 謁金門一首 思越人二首 陽柳枝四首 望梅花一首 漁歌子二首
(7)魏承班 魏承班:菩薩蠻二首 
第九巻 十九首(魏承班:十三首、鹿虔?六首、閻選:六首、毛熙震:十六首)
     (7)魏承班 魏承班:滿宮花一首 木蘭花一首 玉樓春二首 訴衷情五首 生?子二首 ?鐘樂一首 漁歌子一首 
(7)魏承班・
鹿虔衣
鹿虔衣: 臨江仙二首 女冠子二首 思越人一首 虞美人一首
(7)閻選・尹
閻選:虞美人二首 臨江仙二首 浣溪紗一首 八拍蠻二首 河傳一首 尹參卿鶚六首 臨江仙二首 滿宮花一首 杏園方一首 醉公子一首 菩薩蠻一首
(8)毛熙震 毛熙震:浣溪紗七首 臨江仙二首 更漏子二首 女冠子二首 清平樂一首 南歌子二首  
第十巻 五十首(毛熙震:十三首、李c:三十七首)
   (8)毛熙震 毛熙震:河滿子二首 小重山一首 定西番一首 木蘭花一首 後庭花三首 酒泉子二首 菩薩蠻三首
(9)李c 李c:浣溪紗四首 漁歌子四首 巫山一段雲二首 臨江仙二首 南?子十首 女冠子二首 酒泉子四首 望遠行二首 菩薩蠻三首 西溪子一首 虞美人一首 河傳二首
      



『花間集』詞人の一人である欧陽烱は、衛尉少卿の任にあった趙崇祚が大勢の文士を集めて討論をさせ、選んだ五百首の詞集を編纂し、題名を付けるよう請われ、序の形で、その経緯や『花間集』詞の特質や『花間集』詞が如何なる文学の流れを汲むものか、またそれがどんな環境のもとで歌われたかを明らかにした。

欧陽烱はまず冒頭で、『花間集』に収められた詞は、玉に彫刻を施しその美しきに一層の磨きをかけたようなものであり、天然の造化を模倣しながらも、それより造かに巧みであること、またそれは、あたかも春の花や葉を切り取って、春と鮮やかさを競い合ぅかのようであると断言する。


その歌は、昔、国中を探してもわずか数人の著しか歌えなかった高雅な白雲謡の歌にも似て、それを仙女のような女性が歌えば、それを聞きつつ酒を傾ける男たちほ陶然として酒に酔うと述べ、『花間集』の詞が歌姫の侍る宴席で歌われるものであったことを示唆する。「春の艶やかさを奪い」とは、『花間集』に詠われた季節に春が圧倒的に多いことによる。仙女のような歌姫が歌う『花間集』の詞は、その昔の一つ一つが自ずから鸞鳥の鳴き声に合致し、その響きは空を流れる雲をも留めるほどであり、その言葉の一つ一つは十二音階の音律にぴったりと合っていることを指摘する。

続いて欧陽烱は、『花間集』 の詞が楽府詩に連なるものであり、贅沢を競い合うどんな富豪の家を凌駕する趙家の(趙崇祚)の豪華な宴席では、貴公子が詞を色紙にしたためて美女に手渡すと、それを受け取った美女が拍子木を手に取って、それを歌えば、美女の美しきは嫌が上にも勝ると言い、ここでも『花間集』の詞が宴席のためのものであることを言う。

『花間集』の詞に類似する歌は、既に南朝の時代に作られているが、それは言葉が雅やかでないばかりか、実体を伴わぬ空疎なものであったこと、そして、唐の玄宗皇帝の時代になって初めて外面内面ともにそなわった清平楽調が作られ、近年に至って温庭第の詞集『金茎集』が現れたことを指摘し、詞が名実ともに新しい時代の文学となったことを言う。しかし、この評価は巻末の晃謙之の欧文とは相反するものがある。この後、欧陽桐は筆を続けて、先に触れた『花間集』命名の謂われについて語り筆を結ぶ。欧陽胴は 『花間集』 にきわめて高い評価を与えているが、これは自身が 『花間集』 詞人の一員であったこと、また、編集者の趙崇祚との人間関係に起因するものといえよう。

唐が滅亡して、中原では五つの王朝が長江流域では十数もの地方政権が興亡を繰り返したが、四川盆地を拠とする前・後の蜀は豊かな経済力を基盤に安定した地域となっていた。前・後の蜀は君臣共に一時の安逸をむさぼり、享楽に耽ることで、ここに前・後の蜀の頽廃文化が形成された。それの中核を担ったのは、中原、江南から、文化人のみならず、妓優、楽工、各種職人が戦火を避けて、蜀の地に終結したことが大きな原因である。

編者の趙崇祚は、祖籍は開祖父の趙廷隠が後蜀の大祖・孟知祥に従って蜀に入り、親軍を統括すること十数年。趙崇祚は衛尉少卿となり、弟の崇韜は都知領殿直となって、ともに親軍の指揮に参与した。趙氏一門は要職を占め、その暮らしぶりは贅を尽くしたものであった。


『太平廣記』巻四〇九引孫光憲《北夢瑣言》

「趙廷除起南宅北宅、千梁萬供、其諸奢麗、莫之與儔。後枕江?、池中有二島嶼、遂甃石循池、四岸皆種垂楊、或間雜木芙蓉、池中種藕。毎至秋夏、花開魚躍、柳陰之下、有士子執巻者、垂綸者、執如意者、執塵尾奢、譚詩論道者。」

邸宅は並ぶものがないほど豪奢で、庭の池に二つの島を造り、岸辺に楊柳を、池の端に水芙蓉を、池の中に蓮を植えていた。毎年、夏や秋になれば、花は咲き魚は躍り、柳の木陰で人々が思い思いに巻物を持ち、釣糸を垂れ、如意やら大鹿の尾で作った払子やらを揮い、詩を語り、道を論じたりしていた。

 趙崇祚はこのすべての芸の優れたもの、風流あるものを集めたサロンで、「広く賓客に会い、時に談論風発する中で、近来の詩客の曲子詞五百首を集め、十巻に分けた」という。






花間集

花間集序花間集序 
                                  作者:武徳郡節度判官歐陽炯 撰
 
鏤玉雕瓊,擬化工而回巧。裁花剪葉,奪春?以爭鮮。是以唱雲謠則金母詞清,
?霞醴則穆王心醉。名高白雪,聲聲而自合鸞歌。響遏青雲,字字而偏諧鳳律。
楊柳大堤之句,樂府相傳。芙蓉曲渚之篇,豪家自制。莫不爭高門下,三千玳
瑁之簪。競富樽前,數十珊瑚之樹。則有綺筵公子,?幌佳人,遞葉葉之花箋,
文抽麗錦。舉纖纖之玉指,拍按香檀。不無清?之辭,用助嬌?之態。自南朝
之宮體,扇北裏之倡風,何止言之不文,所謂秀而不實。有唐已降,率土之濱,
家家之香徑春風,寧尋越?。處處之紅樓夜月,自鎖常娥。在明皇朝則有李太
白應制《清平樂》詞四首,近代?飛卿複有《金筌集》。邇來作者,無愧前人。
今衛尉少卿趙崇祚,以拾翠洲邊,自得羽毛之異。織?泉底,獨殊機杼之功。

廣會?賓,時延佳論。因集近來詩客曲子詞五百首,分為十卷,以炯粗預知音,
辱請命題,仍為序引。昔郢人有歌《陽春》者,號為?唱,乃命之為《花間集》。
庶(以陽春之甲將)使西園英哲,用資羽蓋之歡。南國嬋娟,休唱蓮舟之引。
                                       時大蜀廣政三年夏四月日序。
   

(花間集序)

『花間集』の詞は美玉をさらに彫刻を施したようだ、造化にならってそれよりも遙かに巧みである。

そこにある詩の花や葉を裁ち、剪定してととのえ、男と女の春の艶めきを取り込んで鮮やかさを競い合うがごとく作った歌をあつめている。

それ故に穆王がために白雲の歌を唱えは、西王母の歌声は清らかに、仙酒を酌めば、穆王は心から酔いしれるものをとりあげる。
その歌は国中でわずか数人の者しか歌えなかったという白雪の歌よりも名が轟き、その昔の一つ一つは作られた歌詞が美しい音楽に自ずから鸞鳥の唱に合っているというものを選んでいる。

その響きは行く雲をも留めて感動的であるし、言葉の一つ一つは十二律の音律にみな唱和し、適合している。




古楽府の名曲「折楊柳」「楊柳枝」、「大堤曲」「大堤行」の歌は、楽府詩、教坊の曲として長く伝えられているようなものを選んだのである。

漢の古詩で詠った「芙蓉」、六朝何遜の「曲渚」の篇は文豪大家が自ら作ったものであるものを選んだ。

趙崇祚の贅の限りを尽くした邸宅の文芸サロンで、木陰に遊び、詩を論じ、道を論じ合ったが爭うことはなく、そこで、数知れぬ鼈甲の簪を飾った妓女を競わぬ者はなかったのだ。

盛大な宴席においては歌向ける大盃を呑み競うけれど、趙一族の邸宅に在る数多くの珊瑚の樹の豪華さを競い合える者はまったくいなかった。

かくて、きらびやかな宴席には公子たちが侍り、繍の帳の陰にはかならず美人が寄り添っていたのである。

公子は歌をしたためた色紙を風流な美人に寄せたもので、彼らが良いと思ったものを選び、その歌の文句は麗しい錦のような煌びやかで、あでやかな詞を選び出す。

洗練された美人は白玉のような細い指で、選ばれたその詞を拍子木で調子を取って歌う。

その選ばれた清らかな歌の詞は、佳人の艶やかさによって、いやが上にも引き立てずられたのである。



その歌の言葉は雅やかでないばかりか、文体も成り立たないものもあり、いわゆる「花咲いて実のならぬ」空虚なものであった。

六朝南朝から続いた後宮の女性を題材とした艶麗な宮廷風の詩は、紅楼の少し色っぽい音曲歌舞(教坊の曲)の流行を勢いづけた。

詩文が最高潮となった唐より後は、唐の滅亡、都の政情不安により、詩文、音曲歌舞は各地に分散し国の津々浦々に至るまで広がるということになった。

蜀の家々の庭先には花が咲きみだれ、花の香りが春風に乗って小道に吹きわたり、南国の美女を訪ねるまでもなく、文化は成長したのである。

したがって、至る所の紅楼に夜の月が照り輝き、言わずもがな、そこには嫦娥のような美しい女性があつまってきたのである。


花間集が手本としたものに、玄宗の御代には、李太白が天子のお言葉に応えて作った清平楽詞四首があり、近頃になっては?飛卿庭?の『金筌集』があり、これらの影響を受けている。

以後、詞人はみな前人に恥じない者ばかりを選んだ。

ところで、当世の衛尉少卿弘基殿は翡翠の羽を洲のほとりに拾い、見事な羽を手に入れたのである。(趙家の奢侈なサロンで優雅な雰囲気の中に詞は集められた)

蛟人のように綺麗な水底に絹を織り、素晴らしい機織りの技を示すかのように、出来栄えの良い、順序秩序を間違えぬ良き歌を集められた。

そしてそのサロンにおいて、幅広く大勢の客人を一堂に会して、議論を繰り広げさせたのである。

かくて、近来の各地からここに集まった詩人たちの中から十七人の歌詞五百首を議論の上選り集め、分けて十巻とした。

私、欧陽烱は、いささか音楽に通じ、詩人、楽工と旧知であることでとりまとめ、かたじけなくもこの詩集の題名をつけるよう依頼されたので、よって序文をしたためた。

昔、楚の都、郢に《陽春白雪の歌》を歌う者がいて、絶唱と称された。そこでこれを『花間集』と名付けることにした。

願わくは、(《陽春白雪の歌》を歌う者たちによって)この集が漢の西苑に比す趙家のサロンの才人、文人が集結した、その集い議論によって高められることの喜びにあふれた。

こうして、古くからの女子の詞と云えば「採蓮曲」舟歌であった、これに代わって、南国の雅な美しき女らを嬋娟に唱いあげたものがこの詩集なのである。

編纂時は大蜀、広政三年(940年)夏四月吉日に記す。








花間集序花間集序 訳注解説
《花間集序 (1)》 欧陽烱『花間集』全詩訳注解説漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5177
《花間集序 (2)》 欧陽烱『花間集』全詩訳注解説漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5182
《花間集序 (3)》 欧陽烱『花間集』全詩訳注解説漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5187
《花間集序 (4)》 欧陽烱『花間集』全詩訳注解説漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5192
《花間集序 (5)》 欧陽烱『花間集』全詩訳注解説漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5197

武徳郡節度判官 歐陽炯 とは

○武徳軍節度判官 官名。節度判官は節度使の属官。

○欧陽烱(896-971)  五代の詞人。益州華陽(今の四川省成都)の人。前蜀、後唐、後蜀、宋と四王朝に仕えた。笛に長じ、歌詞を多く作ったが、一流のものは少なかった。なお宋書』 では烱の字が迥になっている。『花間集』に十七首の詞が、『尊前集』に三十一首の詞が収められ、今日、計四十八首の詞が伝わる。欧陽桐の「花間集序」は、当時、詞がどのような環境のもと、何を目的にして作られたか、あるいは詞の由来がどのように認識されていたかについて言及しており、詞史の上で、貴重な文献になっている。

益州の華陽、今の四川省成郡の人。若くして前蜀の王衍に仕えて中書舎人となり、後唐に前蜀が滅ぼされると、王衍に従って洛陽に行った。その後、孟知祥が後蜀を建てたので、欧陽烱は蜀に移り、中書舎人、翰林学士、礼部侍郎、陵州の刺史、吏部侍郎等に任じられた。後蜀が宋によって亡ぼされると、宋朝に帰した。欧陽烱は笛に長じていたので、末の太祖超匡胤は常に彼を召し出し笛を演奏させたと伝えられる。欧陽烱は音楽に明るかったということで、『花間集』の編者、後蜀の趙崇祚に請われて『花間集』の序文を書いた。序文の日付は、後蜀の広政三年(940年)夏四月になっている。欧陽烱の詞は、『花間集』には十七首が収められている。




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