長安の都市計画


         長安の都市計画

                皇都の変遷からみえる空間構成を考慮した都市計画

T. 皇都の変遷からみえる空間構成を考慮した都市計画


T. 皇都の変遷からみえる空間構成を考慮した都市計画

 後漢王朝(25−220)崩壊後、不安定な政情が続き、王朝も六朝時代と言われる長期安定したものではなかった。それは、四世紀初めになり、多数の遊牧民、騎馬民族の諸政権の争奪の場となった關中平野に、鮮卑系、匈奴系などの非漢民族血統の系である隋王朝により再統一され、大興城として、582粘着工、583年竣工、新しい都が作られた。これが、のちに唐の長安城である。中国の伝統的な都市計画の原則にのっとった方形であった。南北
8.6q、東西9.7km、と大きく城内面積は、約8400ヘクタールの広さである。古代の宇宙感、方形の大地にかぶさる円形の天体、宇宙軸を通じて結ばれるというものである。
漢代に長安と命名され、前漢、北周、隋などの首都であった。唐代には大帝国の首都として世界最大の都市に成長した[1]。シルクロードの起点とされることもある(シルクロード:長安-天山回廊の交易路網)。また西都(さいと)、大興(だいこう)、西京(さいきょう)と呼ばれていた時期もあった。宋代以降は政治・経済の中心は東の開封に移り、長安が首都に戻ることはなかった。

西域に近かったこともあって、王朝の隆盛とともに国際都市となっていた唐代の長安は周辺諸民族が都城建設の模範とした。

 "とこしえ(長)にやすらか(安)なり"、という長安は理想の都市づくりをしたのである。特に隋王朝は、自らの正統性作りのために、儒教、道教等の伝統的な思想に基づく建物、特に仏教を新しい世界思想であることで積極的に利用する施政をおこなった。支配の正統性を主張するために必要不可欠であった。その結果、過去最大の領土を保有するのである。その領土を、うち中国、外中国の両者を領土とする場合と、内中国だけ、漢民族主体の領土とする場合を交互に繰り返し、漢民族の支配地域は拡大してゆくのである。中原という小さな部分の中国が、拡大していったのである。
 大中国の文化は、一つの空間に漢族と非漢族が居住している為に、国際的・普遍的趣向が強く、その反対の小中国の文化は、漢族のナショナリズムの側面が強くなるものであった。
 このような中国空間の変遷が、皇都の立地の変遷に密接に関連する。ここに中国史の大きな流れが集約されているのである。

 中国における代表的皇都の変遷をまとめると次の通りである。
@長安(奠都年数1077年間)
A北京(奠都年数903年間)
B洛陽(奠都年数885年間)
C南京(奠都年数450年間)
D開封(奠都年数366年間)
E安陽(奠都年数351年間)
F杭州(奠都年数210年間)
以上の7都市である。ただ、五大代表古都といえば、すなわち、長安・北京・洛陽・南京・開封である。

ここではこの五大古都により、論を進める。
 長安は、西域に領土拡大し、内中国と外中国の接点であること、それを維持管理してゆく必要性から、都をおいたのであり、結果この時期の世界最大の都市となり、国際都市化していったのである。
そして、元帝国以降、時代経過して西域より、北方面に国都が拡大していくことにより、北遊牧・騎馬民族対策のため、内中国と外中国の接点の北京が都とされる。国力の増加は、運河網が整備され、世界最大の穀倉地帯からの大量輸送が容易となったことが必要条件であった。

長安の立地する西北部の空間は、中国の中でも最も媒介性の高い、政治・経済・文化的中核をなす地点で、これが關中平野である。この地点は古くから、広く灌漑、運河なども整備された進んだ地域で、優れた穀倉地帯であった。したがって、様々な種族、王朝興亡の争奪の地となり、文化のメルティング・ポットとなったし、異なる文化要素の接触とぶっつかり合いのなかから、普遍的な文化が醸成されるのであった。長安は、シルクロードの出発点であり、終着点であった。
 關中平野には、三原・高陵・陽・王橋の諸縣に広がる最も豊かな穀倉地帯となったのは、上代から続いて秦、漢にかけて積極的に、灌漑施設を整備、網羅した。長安の市場に供給されたので、長期間、経済的先進地となりえたのである。