漢詩李白のブログ |
■新しい感覚で、古い時代の詩 歌を解釈していきます。 ■その詩歌の作られた背景を考 え、解説をしていきます。 ■昔、作られたものをこの漢詩の サイトに一つ一つ積み上げるように 紹介していきます。 |
■ 女性詩人たち |
雰囲気の柔らかい詩を書く詩人たち |
虞美人 王昭君 卓文君 劉細君 班u、 蔡炎 上官婉兒 楊貴妃 薛濤 唐婉 魚玄機の詩 秋瑾 |
李 白 楊貴妃を詠う 李白 王昭君 二首 白楽天楊貴妃を詠う ・白楽天王昭君を詠う二首 四大美女の詩 |
・中国の世の変遷 時に詠う |
漢詩理解のための時代の解説 中国の時代と詩人のたち |
1.東周前 770〜前403〜前221 孔子 孟子 屈原 伯夷 宋玉 荊軻 呉越の戦い 西施ものがたり 2秦. 前221〜前206 項籍(項羽) 虞美人 ●前206 鴻門の会 前漢 前202〜8 王昭君 高祖(劉邦) 枚乘 東方朔 漢-武帝 (劉徹) 劉細君 李 陵 蘇武 3.新 8〜23 卓文君 楊雄 班彪 後漢25〜220 梁 184〜280 李延年 張角 蔡邑 趙壹 禰衡 関羽 班u、 梁鴻 三国時代 武帝曹操 文帝曹丕 曹植 繁欽 蔡炎 繆襲 黄巾の乱 230頃 竹林の七賢 応擧 阮籍 惠康 山濤 劉伶 阮咸 向秀 王戎 孫楚 張華 張協 潘岳 左思 陸機 陸雲 潘尼 |
4.五胡十六国 301頃〜439 東晋 317〜420 元帝 (東晋) 王羲之 陶淵明(陶潜) 僧肇 宋 420〜479 永明体 謝霊運 顔 延之 北魏386〜535 鮑照 斉 420〜479 永明体 謝兆 任 ム 沈約 王融 蘇小小 孔稚珪 刑邵 斛律金 鍾エ 梁 502〜557 蕭衍・梁武帝 范雲 何遜 王籍 陸垂 蕭陳 萸信 王褒 徐 陵 陳 557〜589 陳後主 陰鏗 隋 581〜618 楊 素 薛道衡 観徳王・楊雄 |
孔子 孟子 屈原 宋玉 荊軻 項羽 |
武帝 蘇武 王昭君 卓文君 蔡邑 曹操 曹丕 曹植 阮籍 陶淵明 |
○ 初唐の詩人たち 魏徴 王勃 蘆照鄰 駱賓王 沈栓期 宗之問 上官儀 上官婉兒 ○ 盛唐の詩人たち 張説 張九齢 賀知章 孟浩然 王維 裴迪 王昌齢 王翰 賈至 高適 李白 杜甫 岑參 王之渙 ○ 中唐の詩人たち 張謂 韋応物 劉張卿 孟郊 柳宗元 劉禹錫 白楽天 張継 顔真卿 元槇 薛濤 ○ 晩唐の詩人たち 杜牧 李商隠 温庭均 高駢 曹松 魚玄機 |
林逋 蘇東坡 欧陽脩 司馬光 晏殊 王安石 曹鞏 岳飛 陸游 朱熹 辛棄疾 高啓 秋瑾 |
●杜甫の人生 |
新解釈: 杜詩と人生を四区分 して見ていくのが常識であった。 1. 浪人生活期 2. 安史の乱期 3..成都流寓期 4..南国漂泊期 上記の区分は、99%採用して いる。 ここでは杜甫の詩の分析で次 の通りとした。 1.青春期(李白と別れるまで) 2.官を辞して、秦州を旅立まで 3.紀行・漂泊期 杜詩、心の動きから三つに区分 されるべきとします。 ただ、杜甫が晩年自らの詩に 手を加えていることから判断する と2期から3期の変化こそ大きい ものであるから、ここをエポックと 考えれば、エポックメーキングは 一か所。 ・杜詩表現の特徴である「白 髪頭」の表現は劇的に変化しま す。杜詩区分に関連してとらえま す。 |
●杜詩研究 |
○ 杜甫詩 1411首 ・ 年賦・詩の時系序列 ○ 杜甫 詩目次と詩のタイトル ○ 杜甫アウトライン ○ 杜甫ものがたり ○ 杜甫 李白を詠う ◎ 青年期と李白と遭遇期 ◎ 李白と別離仕官叶う期 ◎ 漂泊の旅情期 |
掲載予定 ●杜甫の人生(一般論) 吉川幸次郎『杜甫ノート」の要約 ●杜甫間違った士官の道 ●杜詩『白髪の詩」の変遷 ●杜詩「政治的発言」変化 ●杜詩「愛すべき詩」 中国詩史上初、妻を愛す詩 ●杜詩「自然への愛」 ●杜詩「抑圧された人への愛」 中国詩史上初、社会で抑圧され た人を詠う ●杜詩「調子に乗ってしまっ た?」 ●杜甫の人生 杜詩の画期的時期につぃて |
● 杜甫 李白を詠う |
・贈李白[五言律排] ・贈李白[七言絶句] ・送孔単父謝病歸游江東,兼呈李白 ・遣懐 ・冬日有懐李白 ・春日憶李白 ・飲中八仙歌 ・夢李白二首 ・寄李十二白 二十韻 ・天末懷李白 ・不見 ・昔游 |
●杜甫研究 |
○杜甫と馬 (未稿) ・杜甫は馬が好きで馬を題材にした詩をたくさん書いているが、ある時から、詠わなくなる。虫とか、花や自然を題材にしていく。 |
●中国4000年の奇跡 |
杜甫・王維・李白の生きた時代:関連年賦 (その時詩人は)中国の漢詩の中下最高峰の詩人が遭遇していた。 |
●安史の乱その時 Anshi-RAN |
○安史の乱と三詩人李白王維 安史の乱は詩人たちの運命を変えた。 王昌齢 高適 裴迪 張謂 賈至 岑参 儲光羲 儲光羲は死罪になりかけた李白を助けた。 ○安史の乱 と その背景 |
●王維の詩 |
田園楽七首 1 千門 |
田園楽七首 2 再見 |
田園楽七首 3 採菱 |
田園楽七首 4 芳草 |
田園楽七首 5 山下 |
田園楽七首 6 桃紅 |
田園楽七首 7 酌酒 |
1孟城幼 もうじょうおう |
2華子岡 かしこう |
3文杏館ぶんきょうかん |
4斤竹嶺きんちくれい |
5鹿柴 ろくさい |
6木蘭柴 もくらんさい |
7茱萸拌 しゅゆはん |
8宮塊陌 きゅうかいはく |
9臨湖亭 りんこてい |
10南 陀 なんだ |
11欹 湖 いこ |
12柳 浪 りゅうろう |
13欒家瀬らんからい |
14金屑泉 きんせつせん |
15白石灘はくせきたん |
16北 陀 ほくだ |
17竹里館 ちくりかん |
18辛夷塢 しんいお |
19漆 園 しつえん |
20椒 園 しょうえん |
●李白の詩 |
・送別の詩 ・春爛漫詩 ・楼上の詩 ・交友の詩 ・情愛の詩 ・酒友の詩 ・夏日の詩 ・戦乱の詩 ・懐古の詩 ・気概の詩 ・旅情の詩 ・望郷の詩 ・閑適の詩 ・老境の詩 ・冬日の詩 ・人生の詩 1.「訪載天山道士不遇」 2.「峨眉山月歌」 3.「江行寄遠」 4.「秋下荊門」 5.「渡荊門送別」 6.「望天門山」 7.「金陵酒肆留別」 8.「蘇台覧古」 |
● 李白杜甫を詠う |
・行路難 三首 李白 ・魯郡東石門送杜二甫 ・沙邱城下寄杜甫 |
●詩人と詩 紹介 |
上代・三国時代から隋までの詩人たち |
陶淵明の詩 |
唐代の詩人たち ・初唐期 ・盛唐期 ・中唐期 ・晩唐期 |
宋代以降の詩人たち ・宋(北宋・南宋) ・金・元以降 |
■新しい感覚で、古い時代の詩 歌を解釈していきます。 ■その詩歌の作られた背景を考 え、解説をしていきます。 ■昔、作られたものをこの漢詩の サイトに一つ一つ積み上げるよう に紹介していきます。 |
ものがたりとは? 詩人の人生概略と詩index |
■ 王昭君ものがたり ■ 張説ものがたり ■ 張九齢ものがたり ■ 孟浩然の詩 ■ 王昌齢の詩 ■ 王王維ものがたり ■ 李白ものがたり ■ 杜甫ものがたり ■ 岑参ものがたり ■ 白楽天の詩 ■ 王安石の詩 ■ 杜牧の詩 ■ 魚玄機の詩 ■ 蘇東坡の詩 ■ 岳飛の詩 ■ 柳宗元の詩 ■ 陸游の詩 ■ 李商隱の詩 ■ 西施ものがたり ■ 唐王朝の栄枯盛衰 |
■ 宋・元・明時代から清・近代までの詩人たち |
■ 辺塞を詠う詩人たち |
■ 街を詠う詩人たち ■ 女性詩人たち ■ 王朝の栄枯盛衰と詩人 |
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漢詩・唐詩研究と古代における都市計画 唐・長安について |
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■ 春を詠う Haru はる | |||||
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■ 夏を詠う Natsu なつ | |||||
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■ 秋を詠う Aki あき | |||||
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■ 冬を詠う Fuyu ふゆ | |||||
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● 楼閣を詠う |
張継 高適 孟浩然 |
杜牧 李白 杜甫 |
劉禹錫 韋荘 蘇東坡 |
林逋 王之渙 登鸛雀樓 |
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李白詩のサイト |
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杜甫のサイト |
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長安城と周辺 秦皇都の変遷 |
長安 秦の都城 |
遅れて建国した秦は戦国時代には七雄の一つに数えられるまでになる。隣国の晋は内部での権力争いの末に韓・魏・趙の三国に分裂した(晋陽の戦い)。この内の魏が戦国初期には文侯により強勢となり、秦は魏により圧迫を受け、領土を奪われる(洛陰の戦い)。紀元前383年、献公は櫟陽(れきよう、現在の陝西省西安市閻良区)に遷都した。 この状況に憤慨した25代孝公は広く人材を求め、頽勢を挽回することのできる策を求めた。これに応じたのが商鞅である。商鞅は行政制度の改革・什伍制の採用などを行い、秦を強力な中央集権体制に変えた(詳細は商鞅の項を参照)。この商鞅の変法運動に始まる秦の法治主義により国内の生産力、軍事力を高め徐々に他の六国を圧倒していった。紀元前350年に陽(現在の陝西省陽県)付近に城門・宮殿・庭園を造営して遷都し、都の名を咸陽と改めた。 始皇帝は度量衡・文字の統一、郡県制の実施など様々な改革を行った。また、匈奴などの北方騎馬民族への備えとして、それまでそれぞれの国が独自に作っていた長城を整備し万里の長城を建設、それに加えて阿房宮という増大な宮殿の建築も行った。万里の長城や阿房宮の建設には主に農民を使役させていた。なお焚書坑儒などの思想政策も断行したが、ただでさえ過酷な労働と極度の法治主義に儒教弾圧まで加えたことで、全国の不満を高めてしまい、のちの反乱の芽を育てる原因となってしまう。 秦朝は全国を36郡に分けた、中央政府に支配する、領土を広げるごとに、新たな郡を次々に置いた。五嶺の南、南越を支配した領土には、南海、桂林及び象州の3郡を、北に匈奴を攻めて陰山以南を切り取った地には九原郡(現在の包頭市南西)を置いた。 始皇帝が天下を統一し、秦国の領土が広がり、咸陽の人口も増えると、かつて孝公の建てた咸陽の宮殿は手狭になった。そのため始皇帝は渭水の南にあたる上林苑に朝宮を建てる計画を立て、阿房の地にその前殿を造ろうとした。受刑者70万人あまりが動員されて、前殿(阿房宮)と驪山陵(始皇帝陵)の建造にあたらせた。阿房宮は紀元前219年に着工し、始皇帝の死後も工事が続いたが、秦の滅亡によって未完のままに終わった。阿房宮の名称は、当時の人々が地名にちなんで呼んだ[5]ものという。あるいは宮殿の形が「四阿旁広」であることから阿房宮と名づけられたともいう。あるいは「宮阿基旁」であることから阿房宮と名づけられた[7]ともいう。 阿房宮の規模については、諸説がある。その殿上には1万人が座ることができ、殿下には高さ5丈の旗を立てることができた。殿外には柵木を立て、廊下を作り、これを周馳せしめ、南山にいたることができ、複道を作って阿房から渭水を渡り咸陽の宮殿に連結した。これは、天極星中の閣道なる星が天漢、すなわち天の川を渡って、営室星にいたるのにかたどったものである。なおも諸宮を造り、関中に300、関外に400余、咸陽付近100里内に建てた宮殿は270に達した。このために民家3万戸を驪邑に、5万戸を雲陽にそれぞれ移住せしめた。各6国の宮殿を?造し、6国の妃嬪??をことごとくこれに配し、秦の宮殿を造って秦の佳麗をこれに充てた。そこで、趙の肥、燕の痩、呉の姫、越の女などそれぞれ美を競って朝歌夜絃、「三十六宮渾べてこれ春」の光景をここに現出せしめた。唐代詩人の杜牧「阿房宮賦」(zh)に詠われたのは、必ずしも誇張ではない。 なお『史記』項羽本紀に「項羽が咸陽に入り、秦王子嬰を殺害すると、秦の宮室は焼き払われ、3か月間にわたって火が消えなかった」とする記述があり、このとき阿房宮は焼失したものとみなすのが長らく通説であった。しかし、2003年に「項羽によって焼かれたのは咸陽宮(中国語版)であり、阿房宮は焼かれていない」とする新説が公表された。これが事実であれば、阿房宮は秦王朝の滅亡後も漢王朝によって使用されていた可能性が高いと言える。 また、謡曲「咸陽宮」には、次のように詠う。 秦の献公檪陽に都したが、孝公に至り、周の顕王の十九年、冀闕宮廷を此地に築いて遷都した、秦の始皇帝の天下を統一するや、天下の兵器を収めて、ここに聚め、天下の富豪十二万戸をここに移したといふ、宮殿は即ち咸陽宮で、長生殿あり不老門あり、豪華一世を風靡したが、楚の項羽に依つて焼かれてしまつた、曽鞏の虞美人草の詩に『鴻門玉斗粉如雪、十万降兵夜流血、咸陽官殿三月紅、覇業己随煙燼滅』とある。また一名渭城と名づく。 抑も此咸陽宮と申すは、都のまはり一万八千三百余里、内裏は地より三里高く、雲を凌ぎて築きあげて、鉄の築地方四十里、「又は高さも百余丈、雲路を渡る雁がねも、雁門ならでは過ぎがたし、「内に三十六宮あり、真珠のいさご瑠璃のいさご、こがねの砂を地には敷き「長生不老の日月までいらかをならべておびただし、「帝の御殿は阿房宮、銅のはしら三十六丈東西九町「南北五町、「五丈のはたほこ「りししやの雲井、「さながら天に「飄り「のぼれば玉のきざはしの金銀をみがきてかゞやけり、ただ日月踏み蒼天をわたる心地しておのおの肝を消すとかや。 |
西周 長安の都市としての歴史は西周の都豊邑(旧字体:豐邑、ほうゆう)(または豊京(ほうけい))に始まる。豊邑は文王の時代まで周公の都であった。武王は殷の紂王を滅ぼしたのち、?水(ほうすい、さんずいに豐、現在は?河。似た字である?水(れいすい)とは別の川)をはさんで豊邑の対岸にあった鎬京(こうけい)に遷都した。この豊・鎬の地は現在の西安市の西南近郊に相当する。 秦 秦始皇帝陵の兵馬俑。西安近郊 紀元前350年、秦は都を雍(現在の陝西省鳳翔県の南)から、咸陽(現在の陝西省咸陽市の東北)に移した。渭水の北岸に位置する咸陽は、始皇帝のときに大幅に拡張され、渭水の南岸に興楽宮や甘泉宮が造営されて、渭水を渡す横橋で咸陽宮と連結された。渭南西郊の上林苑に朝宮の建造が計画され、その前殿として阿房宮が営まれた。 前漢から北周 秦滅亡後の戦乱の結果漢朝を建てた劉邦は、婁敬と張良の進言により破壊された咸陽の郊外に新たな都城を建設、長安と命名、蕭何が宮殿を造り、恵帝の時代には城壁が建築されている。長安城の南側は南斗、北側は北斗の形をしていたため、当時は長安城の別称として「斗城」が誕生した。長安城には九市、十二門が設けられ、城内には未央宮、長楽宮、北宮、桂宮といった宮殿があった(『三輔黄図』)。漢代の長安はいびつな形をしていた。その後前漢、新、後漢(滅亡前の数年間)、前趙、前秦、後秦、西魏、北周が首都を設置している。 |
隋・唐 |
北周を滅ぼした隋朝を立てた 楊堅は、生活環境の悪化や 政治的思惑からこれまでの 長安を廃止し、その郊外であ る龍首原に新たな都城を造 営した。新たな都城造営を 担当したのは、宇文ト(555 年 - 602年)である。初め大 興城(だいこうじょう)と称され た都城が、隋唐代の首都・ 国際都市としての長安の都 である。中央の朱雀門街を 挟んで、左街に54坊と東 市、右街に54坊と西市、総 計110の坊市から構成される 条坊都市であった。後述され る日本の平安京とは異なり、 長安城内では、各坊の四囲 にも高い牆壁が取り囲んでお り、それら門は夜間は閉門さ れ坊外との通行は禁止され た。また、龍首原は、北から 南に向かって、6段に分かれ た台地状の丘陵であった。 |
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隋朝大興城城坊平面圖。 |
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設計者の宇文トは、それを周易の六爻になぞらえて都市計画がなされたと考えられている。天子の位に相当する九二に宮城を置き、九三の君子の位には皇城を配置した。さらに、周易においては九二よりも上の最上位とされる九五の丘には、庶人を住まわせると災いの元と考え、国寺である大興善寺と道観の玄都観とを置いて、国家の安泰をはかったという。 最盛期で人口100万人とも言われる大都市に発展した長安であったが、同時に食糧問題という致命的な問題を内包していた。関中地域のみで長安の膨大な人口を支えるだけの食糧生産は不可能であり、江南から大運河を通じて大量輸送を行うか、朝廷そのものを食糧搬入が容易な場所に一時的に避難させる(洛陽に副都を置いた理由の一つである)ことによって対応していたが、安史の乱以後は政治的不安定から大運河の管理が次第と困難となり、大運河が通航不可能となるとたちまちのうちに長安での食糧価格の高騰に発展、貧困層の中には餓死するものも相次ぐようになる。唐の滅亡直前に王朝簒奪を狙う朱全忠によって都が洛陽に移された後、長安が再び都になることは無かった。 五代以降 長安は唐末の戦乱で荒廃したため、首都は東の洛陽に移された。唐を滅ぼして後梁を建てた朱全忠は首都をさらに東の開封に移した。これにより首都機能を失った長安の城壁は縮小され、一地方都市となった。明代に、長安への遷都論が唱えられた事があったものの、既に唐代には食料問題を内包する長安への遷都は実現せず、名称を西安(せいあん)と改称され地方都市として発展していった(現在の西安については西安の項目を参照のこと)。 |
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